PROJECTS

プロジェクト詳細

PROJECT01 ARCHIVE 2015

辺境と芸術:アートは「地方」といかに向き合うのか?/詳細

概要詳細掲載媒体/参加者感想等アーカイブムービー

1. 『AKIBI PLUS』って何なの?

0808_ABP_0508sプロジェクトリーダー/岩井成昭( 秋田公立美術大学教授 )

岩井:みなさん、こんにちは。今日はシンポジウムが始まる前に、今回の取り組み『AKIBI PLUS』というプロジェクトについてご説明したいと思います。私は『AKIBI PLUS』を統括しております、岩井と申します。よろしくお願いいたします。『AKIBI PLUS』という事業を秋田公立美術大学で立ち上げました。ここでかんたんに『AKIBI PLUS』について説明したいと思います。

『AKIBI PLUS』文化庁の補助金を活用した事業で、大学を活用した文化芸術推進事業であります。早い話が、大学を活用して学外の市民を対象にした講座をつくりだすというものです。したがって、学生の皆さんはもちろん聴講可能ですが、学外の市民の方たちにぜひ講座を受けていただきたいという思いが強いプロジェクトであります。

我々の大学は新しい芸術表現を作り出すということに日夜注力しています。ただし、そこで生み出した芸術表現を市民の側に届けるということには、大きな課題があると日々感じております。言うなれば、その「つなぎ手」の役割がアートマネージメントの一つの役割でして、そういう人材を育成したい。今回のプロジェクトはそういったつなぎ手を育成するためのものです。全体で5つのプロジェクト_が進行します。今回のシンポジウムは「プロジェクト1 地域課題研究+ウェブメディア」の一環です。

地域課題研究をしていきながら、問題解決型のアート、あるいは地域の人たちとのアートを介したつながりを見ていきたいと思っております。

今日のシンポジウムを皮切りに、男鹿、秋田県南部(横手・十文字地域)、五城目の全3回のバスツアーを計画しております。男鹿、県南、五城目を回って、地域課題に取り組んでいる人たちにお会いし、アートと社会の関係性を学んでいくというプログラムです。このプログラムは、通しで受講していただくというのが理想的な形でして、ぜひ通して受講申し込みをしていただければと思います。通しで参加すると優先的にバスツアーに参加できます。

またこのプロジェクト1の特徴としましては、アートマネージメントをローカルメディアと協働していく点(注1)です。
(注1)「メディアは人に伝える技術が詰まっているので、その技術をアートマネージメントに応用できないか」との岩井さんの考えに基づいた企画です。

プロジェクト1では、ウェブで発信している組織と組んで、このプロジェクトをウェブで発信したものが、その後SNSなどでどのように広がっていくのか、ウェブメディアならではの相互作用が生まれるのかなどの実験も含めて見ていきたいと思っています。

秋田を代表するウェブメディアとして「秋田経済新聞」と、同人誌的な視点から非常にユニークな活動をされている、秋田を面白がるウェブマガジン「ユカリロ」、この2紙とつながりながら進めていく予定です。

バスツアーに参加していただく方々はこの2つのメディアと、なんらかのつながりを持っていただきます。ツアーの内容を、文章・写真・イラストなどでレポートするという、いわば「大人の宿題」「大人の自由研究」のような形を報告していただきます。それをユカリロがまとめながら、アートマネージメントの考えかたを深めていこうというプログラムです。

説明が少々複雑な仕組みですけれども、みなさんと一緒につくりあげていくというようなプログラムになっていますので、どうぞご興味のある方はご参加のほどよろしくお願いいたします。

その皮切りとしまして、本学のアーツ&ルーツ専攻が中心となりまして土屋誠一さんというすばらしいゲストをお招きしました。

それでは司会の石倉先生にバトンタッチいたします。よろしくお願いいたします。

2. 「辺境と芸術~アートはいかに地方と向き合うのか~」に込めた思いと、パネリストの紹介

0808_ABP_0767s石倉敏明(秋田公立美術大学)

司会の石倉と申します。今日はご来場いただきましてありがとうございます。今日のタイトル「辺境と芸術」とつけさせていただきました。副題は「~アートはいかに地方と向き合うのか~」です。

最初に趣旨を説明させていただきますと、本校は美術大学でありますが、「芸術と何々」というタイトルではなく、あえて「辺境」を最初に持ってきたことに理由があります。芸術などなくても、辺境化は必ず進んでいく。それは、秋田のなかの辺境という意味ではなく、人口減少が課題だと言われている秋田の切実な事情とも重なります。

さらに、「地方創生」で地方を活性化しようという動きが近年ありますが、地方の中でも中核となる都市には、優先的に予算を配布されますが、限界集落まで税金を注ぎ込めないとなった場合、「選択と集中」により、「辺境」が「選択されない」という事態が今、起こりつつある現実です。では「辺境はもう、なくなってもいいのか」といえば、やはりそうではないでしょう。「辺境」をどう捉えるべきなのか、というのはそれだけ重要な問題です。

副題の「~アートはいかに地方と向き合うのか~」では、あえて「地域」ではなく、「地方」というワードを使いました。それは、全国一律に「地方」という場所が最初からあるかのように語られ、その中に美術大学や美術館が作られていますが、ではアーティストや、アートに関わる職業に就いた我々はどう「地方」に向き合っていったらいいのか。本日は3人のゲストをおむかえしております。

まずは土屋誠一さん。美術批評家で、現在沖縄県立芸術大学で美術批評や美術史を教えていらっしゃいます。2014年9月には「反戦ー来るべき戦争に抗うためにー」展という展覧会を企画され、アンデパンダン形式(無鑑査・無褒賞・自由出品)の美術展で、話題を呼びました。

お二人目は、芝山昌也さん。現在は金沢公立美術工芸大学で教鞭を執っておられますが、昨年まで秋田公立美術大学のアーツ&ルーツ専攻の先生でいらして、秋田の限界集落である上小阿仁村で「KAMIKOANIプロジェクト(KAMIKOANIプロジェクト)」を開催、今年で4年目になるアートプロジェクトのディレクターでいらっしゃいます。

三人目は、藤浩志さん。本アーツ&ルーツ専攻の教授であり、青森の十和田市現代美術館の館長であり、十和田奥入瀬芸術祭のディレクターも務めておいでです。

みなさん地方の芸術大学に所属して教鞭を執っていらっしゃると同時に、土屋さんは美術批評家、芝山さんと藤さんはアートプロジェクトのディレクターであり、かつご自身も美術家としても参加されるなど、アートに長年かかわってこられた方たちです。このようなさまざまなお立場から地方とアートの関わりについて見ていきながら、立体的に見識を深めて、長期的にアートマネージメントをどうしていったらいいのかということを、みなさんと一緒に考えていきたいと思います。

3. 地域の文脈によりそうアートイベント「KAMIKOANIプロジェクト」

0808_ABP_0831s芝山昌也( 美術家、金沢美術工芸大学准教授 )

●地域に入っていくということ●
 僕が初めて上小阿仁村を訪れたのは、2006年でした。今の秋田効率美術大学の前身である美術短大時代で教鞭を取っていた頃です。町育ちの僕にとって、上小阿仁村に残る先祖供養の行事「万灯火(まとび)」や、五穀豊穣を願う「虫追い」などの行事は、強く心打たれるものでした。そこから上小阿仁村に通いながら、「一人アーツ&ルーツ専攻(注1)」のようなことを始めたわけです。
 それまで彫刻作品を作ってきただけの男だった自分が、地域に関心をもつようになったわけです。地元の人にも「変な人だな」と思われたんでしょうね。だんだん、祭りに出かけると来賓席に座らされるようになったり、村民の前で話をさせられたりするようになりました。

●KAMIKOANIプロジェクトのきっかけ●
 きっかけは僕が越後妻有大地の芸術祭 アートトリエンナーレ(http://www.echigo-tsumari.jp)に、「KAMIKOANI(2009)」という立体作品を出品したことでした。大地の芸術祭では、作品の展示だけではなく、上小阿仁村の「万灯火」を実演するため、新潟県十日町市仁田集落に上小阿仁村小沢田集落から何人かの村民に一緒に行ってもらって、現地で指導してもらいました。国際アート展の中で、地元でもない場所で行事をやってくれないか、という、僕の無茶苦茶なお願いだったわけですが、上小阿仁村の方たちはそれを快く受け入れてくれました。この懐の深さが、僕が上小阿仁村に惹かれた理由の一つでもあります。
 この二つの集落はいずれも過疎化が深刻な集落です。しかし、この「万灯火」の開催をきっかけに、仁田集落(新潟)と小沢田集落(秋田)の間で、人の行き来ややりとりができてきた。こういう突飛なことはアートだからこそ実現できたことです。アートというと理解しにくい、難解なものとして敬遠されがちですが、上小阿仁村にはそれを受け入れてくれる懐の深さがあった。さらに、上小阿仁村のなかにも、大地の芸術祭に同行してくれたスタッフも育っていたので、「上小阿仁村で『大地の芸術祭』の飛び地開催をやらないか?」という、これまた驚くような提案にもわりとスムーズに「やりましょう!」ということになっていったんです。

●すべては八木沢集落から始まった●
 こうして2012年、上小阿仁村のなかでも国道285号(通称:ニーパーゴ)から外れて山奥にどんどん入っていったところにある八木沢集落にて、大地の芸術祭の飛び地開催としてアート展が行われたのです。それが最初の「KAMIKOANIプロジェクト」でした。廃校になった木造校舎を拠点に、八木沢の田んぼや、川や、誰にも使われることのなくなった小屋などがアート展の展示場になったのです。1ヶ月半ほどの期間中に9000人を超える来場者があり、村の人々は口々に「昔の活気が戻ったようだった」とうれしそうに語ってくれました。その後、「KAMIKOANIプロジェクト」は単独で開催されるようになり、2013年には沖田面会場が、2014年には小沢田会場が、新たに加わるなど、次第に規模が大きくなっていきました。

●抽選になるほど大人気に! 「八木沢番楽部」●
 このプロジェクトでは、上小阿仁村に残っている貴重な生活文化や伝統行事を、他の地域に住む人たちに伝えたい、という思いがありました。地元に住んでいる人にとっては当たり前でも、他の地域の人の視点から見ればそれが非常に貴重なものであることが往々にしてあります。それは僕がこの上小阿仁村に惚れたわけ、でもあるので、それを多くの人に伝え、さらにそれを地元の人にこそ理解してほしかったということがあったのかもしれません。
 2012年当時、地元の中学生だった田中愛子さんの作文を元にしてはじまった「番楽サミット」はその成功例の一つです。作文には村に残る伝統芸能の継承の仕方についての構想が書かれていました。それを元に、総務省の制度である地域おこし協力隊の人たちが中心になって、村の大人たちが、村の三大芸能「小沢田駒踊り」、「大林獅子踊り」、「八木沢番楽」を復活させ上演したのです。さらに他の地域の芸能を招いて競演をする、というものです。この「番楽サミット」を見た、当時小学生だった子どもたちが、今は中学生になっているのですが、中学校にある「八木沢番楽部」という部活動がこの世代の子どもたちに大人気で、なんと満員! 抽選で部員を選定するまでになっているのだそうです。
 今まで番楽なんて見向きもしなかったような子どもたちに「番楽って、かっこいいんだ!」という意識が芽生えている。これは当プロジェクトをやってきて本当によかったと思えることでした。
(注1)アーツ&ルーツ専攻(http://www.akibi.ac.jp/department/arts.html)
秋田公立美術大学の専攻の一つ。このシンポジウムのパネリスト、藤浩志さんや司会の石倉敏明さんが教鞭を取る。芝山昌也さんも2014年までアーツ&ルーツ専攻の准教授だった。

●4年目を迎えて●
 4年目を迎えて、集落のおばあちゃんに「この季節がきたね」「今度はどんな人がくるの?」と声をかけられるようになっています。「楽しみ」まではいかなくても、「ないと寂しい」ぐらいには認識してもらえているのかなと思います。
 ただ、過疎地ですので、十数軒しかない集落の4軒が、住み手が亡くなったために消失しました。つまり、誰も口には出さないけれど、この集落の行く末がある程度予想できるというところまできているというのが現実です。
 この限界集落という地域に関わるということは、アートツーリズムとか、芸術の普及とか啓蒙とかいうことと一線を置いておかなければならないな、というふうに思っています。もちろん、成果とか経済効果とかそういうことは大事だし、近代化に乗り遅れた地域だからこそ残る営みの記憶というものをどういうふうにつないでいくかという、そういうことが課題になっていくのかなと思います。
 秋田はその問題の最先端にいるわけですから、いかに集落に寄り添い、過ごしていけるかということは命題です。

●古い記憶をどうつないでいくか~アートにしかできない残しかた~●
 これは2013年に最初に発表された田附勝(http://tatsukimasaru.com)「見えないところに私をしまう(2013)」です。これは八木沢集落の人や廃墟などを撮って、それを使われなくなったトタン農機具小屋に展示するというもので、今年で公開は3年目です。「朽ち果てる展示」ということで、雨風、雪がぼとぼとと落ちてくるような環境に敢えて小屋を置いたままにして、作品が朽ち果てていく様子も含めて作品となっているものです。正面に写っているのは佐藤ヨウゾウさんという方で、八木沢集落最後のマタギの方。この地域に僕がこれだけ入れ込むようになったきっかけになったのはこの人で、「KAMIKOANIプロジェクトをやりたい」と僕が相談に行ったときも、この人がキーマンでした。つまり、ヨウゾウさんが認めれば、他の人も認めざるを得ないという。ヨウゾウさんは林業を営んでいたので、山から木を下ろす方法など、僕なんかは宮本常一(注2)の本なんかでしか知らないようなことを、教えてくれたりして強烈に印象に残っている人でした。
 ヨウゾウさんはこの写真が撮影された3ヶ月後に亡くなりました。このことは、集落がなくなっていくということを強烈に感じさせる出来事でした。
 古い記憶をどうつないでいくか、ということでは博物館や郷土資料館などにアーカイブとして残すことも考えられますが、限界集落という辺境でアートプロジェクトを行うということは、アートにしかできない残し方を考えるという意味でアートの一つの可能性として残されているのかなということを思っています。
(注2)宮本常一(1907-1981)
民俗学者。生涯に渡り、日本各地の離島や農村漁村を歩き、庶民の暮らしを記録した。著書に『忘れられた日本人』『私の日本地図(全15巻)』など多数。

4. 「沖縄在住のシティ派美術批評家~モダニストとしての提言~」

0808_ABP_0786s土屋 誠一( 美術批評家、沖縄県立芸術大学准教授 )

●「辺境」、苦手です ~沖縄在住のシティ派美術批評家~●
 お招きいただきましてありがとうございます。沖縄県立芸術大学(以下、沖縄県芸)の土屋といいます。神奈川で生まれ育ち、大学時代は東京の多摩地域にある美術大学に通っていました。ちょうど7年前、縁あって沖縄県芸に赴任することになり、現在に至ります。
 つまり、私は自分でいうのもなんですが、都会っ子なんです。だから、「田舎」って非常に苦手な人間なんですよ。今KAMIKOANIプロジェクトの話があったんですが、多分私、無理ですね(笑)。
 私の勤める大学は首里城のそばに建っていまして、沖縄といえど町なかです。せっかくの沖縄で海の近くに住めばいいのになどと思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、私は何かしらの「情報」がないとダメな人間なんです。かなり病的なtwitterユーザーですので、電波が入らないと困るし、エアコンが効いてないとダメだし、外に出るのも、歩くのも嫌、近くに本屋さんがあれば最高、ということで、沖縄の自宅は町なかのメガ書店の裏にあります。そんな人間なので、「辺境」っていうのが苦手な人間なんですね。そういう前提をまず皆さんにお知らせしておきます。

●武雄市図書館に見る「地方の知的・文化的水準問題」●
 昨日、秋田市_に着いたので、だいたい観光をして、今日のシンポジウムまでに角館の仙北市立角館町平福記念美術館か横手の秋田県立近代美術館に行こうかな、と思ったのですが、どちらも微妙に遠くて諦めました。で、何をやっていたか。……twitterをやってたんですね。本当に、ロクでもないですね(一同笑)。
 地方の問題、ということで、ここのところtwitter上で話題になっている話のひとつに、佐賀県の「武雄市図書館問題」というのがあります。武雄市図書館は2013年からCCC(カルチャーコンビニエンスクラブ)、つまりTSUTAYAを運営する会社の指定管理となりました。「指定管理者制度」というのは、市町村が直営していた知的公共機関を、民間が代行していいよ、という制度のことです。
 twitterで話題になっているのはこの武雄市図書館の「初期蔵書入れ替え費で購入された資料一覧」です。この図書のリストが、まあどうにもロクでもない。ある一定の知的教養を持っている人なら誰がどう考えてもこのセレクションはないだろうというようなものなんです。つまり、売れ線を狙ったんだろうけれども、それは知的公共財として税金を使って市町村が購入するべきものなのか、TSUTAYAの在庫を武雄市に押し付けられているのではないか、ということが問題になっているわけです。なぜこんなことになったのか、本当のところはわかりませんが、しかし結果的にろくでもない蔵書リストになっているのは間違いないだろうということで、私のタイムライン上では問題になっていました。公共の文化施設は将来来るべき活用の機会が担保された状態で運営されなくてはならないのに、ということが問題の要点ですね。
 武雄市には、書籍の価値をジャッジできる人がいないのか。以前は図書館司書がいたはずなので、当然プロの目で見ていたはずですね。「武雄市図書館問題」が明らかにしているのは、今の武雄市には、知的公共財としての本かどうかを見極めることができる人がいない、ということ。これは非常に問題ですし、地方の現状を典型的に表しているともいえます。

●行き場のない「文化的プロフェショナル」たち●
 指定管理者制度に言及するまでもなく、資本主義の原理はもちろん大切ですが、それとはまた違う何かしらの判断基準として、「文化的な価値基準」に従って何者かがジャッジされる、そういう状況を誰が作るのかといえば、その役割をかつては「プロフェッショナル」が担っていたわけです。そのプロが職を失って、あぶれているというのが現状です。
 今、図書館の話をしましたけれども、これは美術館でも同じこと。私も芸術大学と名のつくところに勤めているわけですから、私にもその責任の一部があると思いますが、人材を育てておきながら、その受け皿がないということが現在の状況です。この問題を直視しないといけないと思います。地方に行けば行くだけ、文化的なプロフェッショナルの受け皿が極端に少ない傾向にあることは事実です。都市部であれば、何かしら文化的なプロとして活動しながら、生活のための金銭に関しては他の労働で補うということが可能でしょうけれども、地方ではそれは成り立ちづらい状況になっていると思うんですね。

●アートツーリズムは誰にでもアクセス可能か?●
 地方にいると、文化的なものへのアクセスポイントが少ないという問題があります。同様に、アートツーリズムというのはオープンなのか、ということは問わなければならない問題です。 
 大学では美術史を教えることがあるんですが、東京にいれば「上野の国立西洋美術館に行きなさい」「東京国立博物館に行きなさい」ということが可能ですが、沖縄の学生に同じことはなかなか言えません。それはアートツーリズムの問題ともつながってくるんですが、地方では都市部に比べても「アートツーリズム」を享受できる層が限られているというのが私の率直な実感です。
 さらに沖縄に住んでいる私に言わせれば、アートツーリズムはアクセスするのにお金がかかります。地方で行われているアートツーリズムに参加するには、飛行機に乗り、レンタカーを借りて、一泊して、ということになります。つまり、資本(お金)が必要だということになるわけですよ。その資本は誰に対しても果たして開かれているのか。アベノミクスなんていいますが、やはり景気がいいとは言えず、所得の格差が広がっているという現実は、文化的・知的な格差も同時に広がっているということを表していると思います。フランスの社会学者ピエール・ブルデュー(注3)が言ったように、文化資本が低ければ当然のことながら文化を享受するチャンスも減るわけです。
 地方に芸術を、といったときに、地方のコンテクストを利用してそのリソースを何かしらにつなげようと、言うのはかんたんなんですけれども、受け手は誰なのかというのがもっとも大きな問題です。都市部の人なのか、地域に住む住民なのか、または他の地域に住んでいるアートに関心のある人なのか。一体、誰なんでしょうか。

● SNSは人を不自由にする~細切れにされた「ローカル」の中で~●
 先ほど武雄市の文化水準の話をしましたが、我々はあまりに反教養主義を掲げてしまったがために、教養そのものをなくしてしまったのではないか、ということです。昔は西洋のことはよく知っているけれども、日本のことは知らないという学生が多かった時代がありましたが、今の学生の教養はもう、そのレベルではない。
 さらに、ここ(AKIBI PLUSのフライヤーを見ながら)に「プロジェクト1 地域課題とウェブメディア」とあるように、現在はそれぞれがローカルコンテンツに在住していながら、ウェブメディア(SNS)を活用しながら情報収集をしています。そこで我々は自由に情報収集できているかというと、まったくそうではありませんね。SNSが加速したのは何かというと、人々の文化的あるいはローカルコンテンツによるクラスタリングをむしろ強化したことだ、ということです。

●郷土史家のおじいちゃん不在の地方の教養問題●
 ここは大学という場所ですから、あえてモダニストとしてふるまわせていただきたいと思うんですけれども、基本的な教養はやはり重要だな、ということです。
 昔は郷土史家のおじいちゃんなどが近所にいて、そういういわば知的エリートたちの知恵や知識のシンクタンクのようになっていわけですが、共同体の解体とともに地方の教養もどんどん解体しています。さらに公共の知的施設である図書館がいわゆるTSUTAYA化している現状があるわけです。それは一見豊かなように見えるけれど、実は我々が共通に話をできるような基礎的な基盤をどんどん失っていることを意味します。こうして我々が対話する共通の基盤がなくなった現在、対話自体が不可能になっている。対話が不可能ということは、地方における所得及び知的文化的格差が拡大すればするほど、その状況というのは悪化していくだろうというのは容易に想像できます。私はその点においてはかなり懸念を抱いています。
 啓蒙とか教養ということを我々は批判するがゆえに、失ってきてしまったこと。それらが今、地方における問題を引き起こしているのではないかと思うのです。
 そういうことを踏まえた上でないと、地方という問題は語ることができない、というのが私からの提言です。
 じゃあ、やっぱり都会に行かなきゃだめなの?そんなことはないはずなんですよ。今のところポジティブな提言ができませんでしたが、この後のクロストークでポジティブ路線に行きたいと思いますので、また後ほど、どうぞよろしくお願いいたします。ご静聴ありがとうございます。
(注3)ピエール・ブルデュー(Pierre Bourdieu、1930-2002)
フランスの社会学者。文化資本、社会関係資本、象徴資本などの用語やハビトゥス(日常行動の論理)、象徴的暴力などについて触れた著書『ディスタンクシオン』が有名。
(編集部より)階級社会が明らかでない日本において、用語のみの理解は難しいかもしれませんが、フランス映画『ムッシュ・カステラの恋(1999)』を見ると、相容れない世界に生きる二人の差異(=ディスタンクシオン)の深さがなんとなく理解できるかも。

5. 「文化は残すものでなくて、作るもの」

0808_ABP_0738s藤浩志( 美術家、十和田市現代美術館館長、秋田公立美術大学教授 )

●地方暮らしで「生きる術」を身につける●
 土屋さんの過激な挑発を受けて、どう反応しようかと思っているんですけれども、僕ももともと鹿児島市内のど真ん中で、虫もいないようなところで育ったので、都会っ子ではないけれど、虫がダメでね(笑)。
生き延びる術を身につけたという感じがして、どちらかというと「辺境好き」です。辺境好きというか、辺境のなかの心地いいところを見つけていくということかな。基本的に「端っこ好き」です。
 僕の場合は青年海外協力隊でパプアニューギニアに行って、ずいぶん変わったかなという気がしますね。マラリアを媒介するハマダラカという蚊に刺されまくり、マラリアにも2回かかり、生きのびる術を身につけていったような感じです。
 辺境で暮らす人々は、そういう意味では生き延びる術をよく知っていますね。山に入って行って、人に言えないキノコの場所を知っている。誰かに受け継いでいる山菜の場所がある。海があり、山があり、それぞれの保存の仕方があり、人とのつながりがあり、関係ができていたら暮らせていけるんじゃないかな、ということを、僕は辺境でだんだん理解していったという気がします。

●「食べる」「生活する」「稼ぐ」「活動をつくる」は別のレイヤーなんだ!●
 僕は東京でも暮らしたけれど、当時思っていたことは東京は金がないと暮らせないな、ということでした。東京では何をするにもお金がかかるから、時間イコールお金。だから作品を作っていても、すぐ時給換算する癖がついてしまった。一枚の絵が、一冊の本が暮らしていくための家賃になるわけだから、制作しながら、その強迫観念から逃れることが難しくなってしまったんです。
 その後、鹿児島に戻って暮らし、今は福岡の糸島というところでもう15年近く暮らしています。そういう「辺境」でつくづく感じていることは「食べる」「生活する」「稼ぐ」「活動をつくる」という4つは、それぞれ別のレイヤーなんだということです。
 1993年に鹿児島に移住したとき、お金は全然なくなったわけですが、自由だなと思いました。それは家賃がほとんどタダのところを暮らし歩くようになったせいもあるんですが、はじめて自分がつくるもの、買うもの、制作する時間とお金との関係から解放された感覚がありました。山菜をとり、農業をし、海では魚をもらい、山では猟師さんから肉を分けてもらう。こういう生活は辺境でしかできない。町なかでそういう生活はあり得ないわけです。
 僕は意図的に早い時期に東京を離れ、意図的に鹿児島という地方を選びました。だからその頃から、「地方」ではなく、「地域」という言い方をしてきた。秋葉原という地域、渋谷という地域、南九州という地域、北東北という地域というふうに、エリアは違うんだけど、バリューとしては近いかなという思いです。
 その後、インターネットができ、飛行機が安くなって、交通の便が格段に上がりました。福岡では地理的な条件も手伝ってアジアの作家とのつながりができたりして。時代が変わってきたんですね。僕も年に何度も日本中を旅するようになりました。九州だけじゃなく、関西地方や、名古屋とか、本当にいろんなところへ行けるようになりました。
 さっきの土屋さんへの反論みたいになっちゃうんだけど、僕は東京にいたときは、周辺のギャラリーとか美術館しか見にいかなかったのが、鹿児島や福岡に拠点を移してから、ありとあらゆるところを移動しながら見られるようになりました。そういう俯瞰的な視点を持てるようになったのが、すごくおもしろかったんです。

●十和田市現代美術館で、町が変わった●
 鹿児島と青森って、岐阜あたりで日本地図を折るとまるでぴったり重なるような津軽半島が大隅半島で、下北半島が薩摩半島。八甲田あたりが霧島山になるんです。鹿児島に新幹線が通じるという話になったときに、「今どき新幹線が通るぐらいで盛り上がるなんて」って京都や岡山の人は全然わかってくれない。そんななか、青森の人たちだけが「そうだよね、やっとつながるよね」って同じ意識を持ってたんですよね(笑)。そんなことでやたらと盛り上がり、十和田市現代美術館に興味を持つようになった部分もあるぐらいです。
 辺境には空き家も農村も使えなくなった施設もある、だから美術館なんかいらないじゃないか、という話もあるんだけど、継続的におもしろいプロジェクトなどをやっていくとなると、やはり拠点がほしい。でもその拠点を運営していくのはけっこう大変でね、結局お金の話になってくる。
 十和田市現代美術館は、美術館の場合は人口6万人という過疎になりかけの町です。十和田湖は風光明媚で観光地ではありながら、町なかは観光客が来ることもなく、シャッター街になっていった。最初はそこにパブリックアートをおきましょう、という話だったんですが、屋根付きパブリックアートにしようか、という話からできたのが、今の十和田市現代美術館なんです。美術館には最初の年に18万人、その後も13~14万人の来場者が毎年来ているようです。
 こうして風景が変わったことで、まず町の人たちが変わりました。自分の家にきれいなリビングができたみたいな感じかもしれませんね。暮らしている人たちが周辺でジョギングしたり、早朝ヨガをしたりね。なんか知らないけどお客さんもくるようになったしな、なんて(笑)。有名なアーティストの作品をおけば外からのお客さんも見にくるんじゃないのという思惑もあったんですが、住民が現代アートを楽しむようになったり、市内在住のデザイナーやアーティストが増えたりして、町が変わっていったんです。そうなると青森県のなかでも「十和田で暮らしたい」と思われるようになってきたという向きもあるようですよ。
 ただ、これがどこまで続くかはわからないです。20年後、日本中で人口がガツッと減るわけですから、そのなかで十和田市は生き残りの賭けをしているわけです。でも個人的には、ここが美術館としてあるのもいいんだけど、これが廃墟になったときに、ロン・ミュエクの作品の下が役場として再利用されて、みんながここでデスクワークしてるとかだったらおもしろいな、と思うと早く廃墟にならないかななんて(笑)。僕は「パーマネント」、つまり恒久的に永久保存されるという考え方がすごく嫌いで、作品には旬があるし、賞味期限があると思っていますから。
 とはいえ、十和田市という地方都市の投資としては、建築費用、制作コストをかけても、某県立美術館みたいに百何十億とかけているわけではなく(注4)、草間彌生やロン・ミュエクのような常設の作品も含め15億円程度の投資ながら、集客の面でも市の財政的にも悪くなようでいい投資になっている。一応、館長だからこういう話もしないとね(笑)。

●「つまんない地元」がアーティストの目線で広がる瞬間●
 この写真は十和田の飲屋街なんですけど、スナックのネオンに混じってチェ・ジョンファという作家がぶら下げて行った作品がいまだに地元の人から愛されているんです。この前も「藤さん、壊れたからあれ、直してよ」と言われて、チェ・ジョンファに電話したら、息子さんが直しに十和田に来たりね。チェ・ジョンファがきたら地域の人たちも喜ぶし、そうやって関係ができている。地元のおっちゃん、おばちゃんが、こうして韓国の作家と知り合いになっているというのは、ちょっとしたマジックだと思うんですね。
 これは美術館というセンターがあるおかげですが、企画展があるごとに町の風景が変わっていきます。町の人たちが何かはじめるんです。町の縫製工場とアーティストが一緒に何か作り始めるとか、酒屋に山本修路が「酒プロジェクト」というのはじめることで、アーティストが地域の人とお酒を作り始めたり、米作りを始めたり、それがまたおいしくて、「天祈(ての)り」というブランドで売り出したお酒を毎年楽しみにしている人たちが大勢いたりとか。
 こうして作家が作品をつくるというだけでなく、作家が地域の企業やおっちゃん、おばちゃんと何かを作っていこうとするのがおもしろいなと思っています。それはお互いに人生の意味を新たに見つけていくみたいなことにもなっているんです。楽しいことはいっぱいある。
祭りをやってみたりね。詩人の菅啓次郎や、小説家の小林エリカ、石田千、小野正嗣、写真家の畠山直哉などを呼んで、土地のことをヒアリングして一冊の本にするということもやりました(『十和田、奥入瀬水と土地をめぐる旅』2013、青幻舎)。
 アーティストが入り込むことで今までと違う視点を作っていったりすることができるんです。住民は知ってるつもりでも知らないことがけっこうある。風景のなかに潜む気配や魅力やそこからつながる歴史や広がりをイメージできないんですよ。だから自分たちの地域には何もないし、つまんないと思っている。そこにアーティストや小説家が入るとおもしろいことをどんどん拡大してくれて、何かしらの形にできるということが重要なんじゃないでしょうか。
(注4)秋田県立美術館を含むエリアなかいちの総工費は約135億円だったという。「総事業費は約135億円で、国が35億円、県が12億円、秋田市が20億円を負担。新県立美術館やにぎわい交流館の取得費を含めると、8割を公費でまかなった。」(日本経済新聞「秋田市の再開発施設、21日に全面開業(2012/7/20)」より)

6. クロストーク

石倉:それぞれの発表にで、「地方」という無味乾燥なくくりから、それぞれに色がついて「地域」という形で生き生きとしてきたように思います。
 芝山先生からは、アートプロジェクトの発端からお話をいただきました。その地域に興味を持つようになったきっかけから聞くことで、芝山先生の関心が深まっていく様子が感じられました。
 土屋先生からは対照的に「上小阿仁、無理」というのがおもしろかったですね。土地のリソースから新しい現実を見せていくことについての考察がなされました。指定管理の問題、これはパブリックスペースとしての美術館、図書館すべてに言えることですが、文化的なプロフッショナルをどのように養成していくのか、そしてそこにアーカイブ的に知的財産を蓄え、媒介していく人間が必要なんじゃないか、という至極まっとうなモダニストとして、また教育者としての提言でしたが、時間を超えて必要なってくる視点ではないかと思われます。同時に文化的な格差、所得格差についての問題もご指摘いただきました。
 藤先生は現役の美術館の館長さんです。指定管理も行われている美術館の館長さんでもあります。文化的なプロフェッショナルでいらっしゃいますが、藤さんのお話を聞いて、指定管理も、美術館の所蔵作品をいかに管理するのかということが大切だと思いました。聞くところによると、藤さんは館長さんなのに館内の掃除もされるそうで。

:掃除ばっかりしてますよ(笑)。

司会:雪かきもされるんですよね。

:雪かき、当然ですよ。

司会:よく社長さんでトイレ掃除をされる方がいらっしゃいますが、雪かきまでする館長さんはあまりいないんじゃないかと思いますが、どこまで作品に近づいて、どうやって評価するのかという話をしてくださいました。また、食べる・生活する・稼ぐ・活動をつくる この4つは別のレイヤーであるということ、それをつなげるためにアートができることという可能性の話もしてくださいました。

●有形・無形のアクセスポイント~無形のほうなら地方にいっぱいある~●
 ここからはフリートークとしたいのですが、まず、土屋さんが「地方のアクセスポイントの少なさ」を挙げていらっしゃいました。他の方たちは、どうお考えでしょうか。

:先ほどの土屋さんのお話では近代美術のことをおっしゃっていたのだと思いますが、秋田や青森にはそういう近代美術とは違う芸能、祭り、風習といった文化へのアクセスポイントがたくさんあると思います。それこそ上小阿仁村などもそういうものの宝庫ですよね。クリエイティブな感覚で何かを作っていくときに、アートの概念とは違うところで、ローカルだからこそ、未だにアクセスポイントが残っているというところがいっぱいあるんじゃないかな、という気がするんですよね。

石倉:僕はアーツ&ルーツ専攻で文化人類学を教えていますが、藤さんがおっしゃるとおり、アクセスポイントを求めて秋田に来たようなところがあるんですね。文化人類学などをやっていると、東京よりも秋田の方が逆にアクセスポイントが多いわけです。ちょっといけば県南で鹿島さま(http://www.pref.akita.jp/fpd/bunka/kashima.htm)があったり、青森では虫送りがあったり、縄文遺跡の大湯環状列石があったりするわけです。

土屋:アクセスポイントにはいくつかあって、そういう文化的なものへの無形のアクセスポイントという意味ではおっしゃるとおりだと思いますが、美術館とか図書館のような、有形のアクセスポイントというのはもっと必要だと思います。さっきはちょっと言い過ぎてしまって、ずっと家のなかに引きこもってるような言いぶりになってしまいましたが、私だってたまにはフィールドワークをするんですよ(笑)。って、言い訳しなくてもいいんだけど! 

●地方に横たわる2つの方程式と、ネット社会のクラスタリング問題●
土屋:僕がいいたいのは、一つには郷土の知恵とか、古い文献とか、図書館の郷土本コーナーってけっこう重要で、そういうものをなくしてしまって本当にいいの?っていうことです。
 二つ目の問題は、いわゆる限界集落ってどうやって成り立っているのかというと、地縁・血縁の文化じゃないですか。それに対してではアートが何をできるのかっていうのは、非常に難しいところがあって、このままグローバリゼーションが進んでいけば、そういう集落は最終的にはなくなるだろう、と。さらに言えば、古い共同体の形を残すことは確かに重要です。歴史的な財産として重要である。それでも、そこに住んでいる人たちにしてみれば「近代化したほうがいいじゃん」という見方もあるじゃないですか。だって不自由だもん代化した方が自由にはなる。でもそれで失うものがある、という話なんですよ。では、秋田や沖縄や、金沢といった、大都会ではないところで芸術というものを紐帯にしてネットワークを構築できるのかな、というのが一つの課題だと思います。
 先ほど東京の方がアクセスポイントの面で有利だ、と僕が言ったのは、実は違うと思うんですよ。東京にさえいればいい作品を見れますよ、というのは、ここ十数年で整備されてきた環境だと思うんですが、今はもう、ググれば出てくる。ただし、そこにはクラスタリングの問題というのがあります。つまりあるクラスタに属する人はあることに非常に興味を持つけれども、別のクラスタはまったく興味を持たないという、住み分けですよね。これは地域の問題ではなく、このクラスタリングは加速化している。
 今、3つの問題と観点を申し上げましたが、これは非常に複雑な方程式で、今のところ僕には解は見つからない。こういう現実があると思う、というところを述べました。

石倉:村では個人が見えにくくなるという土屋さんの話に、僕は100%賛成するわけでないのですが、確かに個人が見えにくくなるというというところはあるかもしれません。ただ、それも近代的な神話であるということも言えるのかなと思いまして、歴史を遡ったり、実際話を聞いてみると、実は田舎では女性が強いとか、僕らが考える「個人主義」とは違う個人主義がちゃんとあったり、ジェンダー的に評価できない部分があると思いました。
 例えば上小阿仁村などは、ネットでググれば、お医者さんを次々に追い出して、野蛮で、閉鎖的で、とても人が住めるような場所ではない、ということになっているわけですけれども、そこに入って行ってアートプロジェクトをやっている芝山さんはアートツーリズムというよりももっと切実な問題、つまり村が消えるかもしれないという問題に寄り添って芸術祭を続けてこられました。上小阿仁村にはローカルメディアとして新聞社があって、活版印刷を一人で続けていらっしゃる方もいらっしゃいますが、上小阿仁村に残っている文化資源の価値というのをどのように見ていらっしゃいますか?

芝山:隣の五城目町にはイオンがあって、上小阿仁村にはないんです。大資本に侵されていない分、いろいろなものが残っていて、上小阿仁新聞が生き残ったのも、たまたま近くに便利なコンビニなどがなくて、コピー屋さんがなかったから残ったようです。つい最近まで活版印刷で村役場のタイムカードを刷ったりして、営業も続けてこられたのだといいます。上小阿仁村の人たちは、活版印刷の希少価値を知らなくて、よその人たちが「ええ! 活版印刷が残ってるんですか?」と驚くのをみて、逆に驚いたという話もありましたから、よそ者を地域にどんどん入れたということは、村民の方たちにとっても自分たちの村の価値に気づくきっかけになったようです。
 アクセスポイントの話がありましたが、上小阿仁村にはまったく現代アートのアクセスポイントはありませんでした。だからこそ、住んでいる村民自身が自らキュレーションをするような形でアートプロジェクトを作っていったんです。作品の置き方や、伝え方を考えたり、身につけたりしていったのは、プロジェクトのおもしろい効果だったように思います。
 たしかに、地縁・血縁のネットワークは強くて、この場ではお話できないような話が運営に関わってきたりすることもあって、苦労はもちろんありましたけれども、それはどこの地域でもあるのかな、と。

●「地方」らしさとは●
石倉:先ほどの発表の最後に、田附さんの作品『見えないところに私をしまう』を紹介されていましたけれども、あの写真が撮られた三ヶ月後に一番大きな写真の被写体になった佐藤良蔵さんがお亡くなりになったので、翌年はそれを受けて作品の小屋の中に入れないような展示にしたり、また今度はまた入れるようにしたりと、「開く/閉じる」の操作が非常に印象的な作品でした。
「地方」も「開く/閉じる」というテーマがあると思いますが、どういう開き方、閉じ方をしたら、地方の特性を生かすことができるんでしょうか。

:まず僕は地域らしさということ自体、作っていくことだと思っているので、興味関心って作ることにしかないんですよ、僕自身は。おもしろい状況とかありえないようなものとかをつくっていくことにしかないとすれば、残すかどうかということについてはあとの問題として、それ以前に、辺境において興味を持っているのは、希少種ですよね。希少種が多いということです。植物、動物、人種、風習など、近代化で平たくされる前のものが辺境には残っている場合が多い。それはこれから何かを作ろうとする人にはある種の感性を刺激しているんじゃないかなと思うんですね。いろんな情報や興味関心が集まってくる都心部でつくるという方法もあると思うけど、それももちろん興味がある人がいてよくて、それと同時に、こういう辺境に興味を持つ人が何かをつくろうとするところから何か出て来ないのかな、というのはすごく一番興味があるかな、という気がするんです。その延長に、「土地らしさ」とかそういうものが出てくれば、いちばんいいんじゃないかと思うんですよ。

●アートって、なんだろう?~「作品」と「ツール」~●
土屋:私は地域地域の特殊解しかないと思うんですね。特にアート・プロジェクトやソーシャリー・エンゲージド・アート(注5)といわれるようなアートのフォームがある、とされています。その前提となっている話とは、少なくとも言語体系が同じであれば、知識を共有していなくても、あるゲームのルールのなかで同じように振る舞うことができる、それをアートと呼びましょう、ということです。ある作品をアートとして認定するときに、アートヒストリーなるものを背景にして、そこからの連鎖や進歩の仕方、距離の取り方、それに対する批判、それらさまざまなコンテクストというものを複合的に解析して、こういうふうな価値があって、こういうふうに意味があるんだ、というふうに言えるわけです。つまり、アート作品は作品としてみるためのフレームを要請されるわけですよ。
 今まではそのフレームは「ものとして残る」ということだったわけだけれども、では、アート・プロジェクトって何が残るんですか、という点で常に疑問に思っているんです。ドキュメントは残るが、ドキュメントは果たしてアートなのか。
 また、美術的な行為をおこなったときに、将来に対するリソースとしてどうやって投げかけていくのかということもアートの役割ではないかと思います。つまり、過去のリソースを使って、将来に対して何を投げかけるのかということを常に考えないといけないと思うんですよ。そのあたりの伝え方というのは今のアートフォームというのはすごく難しくなっています。ある意味アートは自由になったと言えるかもしれないけれども、自ら首を絞めているといえなくもないというふうに思うんですけれども、アートプロジェクトの専門家としてはどうでしょうか。

:おもしろい投げかけだと思いますし、その点については考えることはありますね。
 「作品」とは何かというテーマは、最近僕のなかでとても大きくなっていて、アートピースとかアートワークなど、いろんな言い方がありますけれども、確かにプロジェクトってアートワークには落とし込みにくいところがあって、僕もドキュメントは作品じゃないと思います。ただ、僕が可能性を感じているのは、お祭りの仮面とか、祭事のときの道具のような文化的資産が「ツール」として使われているところなんです。アートワークスというのは本来、そのようにして使われるべきものなんじゃないかな、ということなんですね。
 つまり、アートワークスというものを美術のシステムのなかの「作品」と捉えるんじゃなくて、地域のなかで「ツール」として使われていくことに可能性があるのではないか。
 プロジェクトのなかから出てきたペインティングもある種「ツール」になりえるし、いろんな人々の活動を誘発する「ツール」になりえる。彫刻も、道角に置かれている地蔵さんとか石像もそうだったかもしれないし、宗教や祭事・儀礼とつながるものと同じように、音のツール、リズム、ありとあらゆるものが人々の次の生活を作っていくなんらかのツールとしての「アートピース」という捉え方は一つあるんじゃないかと僕は思っていて。どうでしょう。

土屋:ああ、「ピース」か。なるほどね。僕は今の日本のこの状況にすごく怒っています。経済、文化、政治システムに対してそれで一体どういうことが我々に可能なのか、と思うと、都市はだめだ、地方からこの国を再構築しないとということです。この問題って日本の近代初期にも同じような問題があって、この問題は石倉さんの方が詳しいと思うけれど、柳田國男ですよ。『遠野物語』の序文に「願わくはこれを語りて平地人を戦慄せしめよ」といったわけです。つまり、「近代化された都会人よ、お前らこれを読んでビビれ」と脅しをかけたわけです。大塚英二さんがよくいうように、遠野物語は偽史であるということもあって、あるピースを着地点にしてもいいんだけれども、そこから新たに物語が発生していくようなものが必要なのかな、と思っていて、それはなぜなら近代美術は物語をすべて排除してきたからですよね。物語を嫌悪してきたのが近代美術なんですよ。我々は地方にいて、都会にはないような物語的なリソースというものを持っていて、それから何ができるのか、ということを問われるならば、美術をしなくてもいいけれども、何かをクリエーションする、あるいは物語をクリエーションするということなのではないのかな、と。それがこの国の形を変えるんじゃないの、と。
地方にいて、あーだこーだ言っていてもだめで、そういう実践をやっていかなきゃいけないのかなと。だからこれは世直しというか、革命までいかないけれど、そういう感じを持っています。

石倉:いいですね、熱くて。何に対して怒るのか、それは私憤ではなくて、折口信夫は「公腹(おおやけばら)」と言いました。
 学術の世界とアートの世界で公共性をどう構築していくのか。

●地方から始める、新たな実践の可能性●
石倉:では地方から「平地人を戦慄せしめる」ようなアートなり新しい実践なりはできないんですかね? 『遠野物語』は東京で書かれたもので、岩手県遠野出身の佐々木喜善という若者が、柳田國男に話を聞かせて、私は山人だ、という立場に立って、平地の人を戦慄させるという一つのお話をつくっていくわけなんです。よくできたフィクションなんですが、そういった前近代/近代/脱近代をどういうふうに受け継いでいくのか。あるいは最近人類学では「ノーモダン」ということも言われています。本当に前近代/近代/脱近代というものがあるのか。そういう問題と同時に、常にご飯を食べて生活していかなきゃいけない、というような現実もあって、それぐらい基準が複層的になっている現代で、辺境から何を追えるのか、ということになってくるかと思うんですが、未来のアートや文化に対してこれだけはしなきゃいけないというものがあるとしたら、何があると皆さんは思いますか?

芝山:今関わっているプロジェクトで、いろいろ一区切りで気づきとしてあったんだけれども、民俗学とかそういうところにすら拾われなかった地域の文化が残っていて、金沢美大の学生が木を彫ったわけですけれども、林業の町ですので、80歳とか90歳のおじいさんがチェーンソーを使った彫り方を教えてくれるとか。ああいう村には学問的には拾う価値のないような文化や人が残っているので、プロジェクトを一旦閉じますが、またやっていく構想をしているのですが、近代という話をしてもそこには通じないと思うんで、人の楽しみとか、まだ生きている人たちの伝えきいた文化だとか、秋田にはもっと隠された文化が残っているという実感があるので、それを作品に反映していくようなことをやりたいです。田附さんなんかはそういうところにけっこう踏み込んで、普段写真をどこに保管しているかとか、そういう些細な生活まで踏み込んで、残された文化をあらわにしていきたいなと個人的には思っています。

土屋:「地方から中央を撃ちましょう」と言いましたが、地方と中央の二項対立をしていても仕方がなくて、あとは移動だと思うんですよ。それぞれ根ざすところはあると思うんだけれども、ここは大学だからあえていうと、移動するだけのモチベーションと知恵を持っているわけです。だから、移動しましょう、ということです。僕が沖縄に行って良かったのは、僕もメンタリティは沖縄人です。って、これを沖縄でいうと殺されるんですけれども(笑)。心情的には沖縄にコミットメントしていて、だからよそから沖縄に来てくれるとうれしいんですよ。だから、せっかくだら見ていけよ、と人を案内します。だいたい暗い気持ちになるところしか案内しないんですけど(笑)。都市部から沖縄に来たり、金沢に来たり、秋田に来た人たちに、伝えていくということをやらなければならなくて、要するに、都会から金だけもらって、あとはこっそりやりましょうというのではなくて、ある種運動というのは必要で、往還運動は必要だと思います。
 ここに揃っているのは全員大学人です。大学という高等教育でかつ芸術を教える人間が何ができるかということだと、地方同士、ネットワークを作って何かおもしろいことをやりましょうよ、ということなんです。

石倉:最初はダークな感じだったのに、ここへきて最後にめちゃくちゃラテン系なところを見せてもらいました。ありがとうございました。藤さん、いかがでしょうか。

:半年ぐらい秋田と沖縄で職場交代とかね。沖縄にいきたいだけだったりして。学生も交換留学したりね。先ほどの話にも出てきたんだけれども、都市部では仕事も情報も専門化して分業化していくけれども、地方ではなんでもやらなきゃいけなくて、百姓化した能力が必要になってくる。僕にはそれもおもしろいんですよね。いろんなことがやれるというかね。土地にも、植物にも、昆虫にも、動物にも向かい合わなきゃいけないということが、ものづくりをするときに自分の感覚に生きてくるような気がして、そういうことが生きて行くためにも大事かなと。逆に、僕は豊かさとかも含めて、生き延びるために辺境じゃなきゃ生き延びられないんじゃないかと思っているんです。減っているとはいえ、これだけの人口ですから、都市部では生き延びられないですよ、ある意味。困難にあったときにね。辺境というのは生き延びられる場所としてあって、生き延びるための技術を身につけていかなければならないんじゃないかな。人間はもともとそうやって生き延びてきたし、そこから学ぶということは重要じゃないかと思うし、そういうことに惹かれる人たちが集まってくるのかなという気もするんですよね。その面白さもある。
アートっていう言い方で捉えるということが、僕は美術館の館長でありながらも、どうしてもひっかかっていて、地方とアートとかね。「アート禁止にしちゃえばいいのに」っていう話を何度もしたことがあります。アーティストっておもしろい人が多いのに、アートをやろうとすると途端につまらなくなっちゃうんですよ。地域に求められているのはもうちょっと違う要素だったりするのに、ついアート・プロジェクトというとアートしなきゃいけないと思ってつまらないものになっちゃうから、いっそのことアートしなきゃいいのにって。でもアーティストって、そこに入り込んで何かをしていると、つい、何かにしてしまうんですよね。余計なことをしてしまう。それが一番おもしろいんじゃないかなと思っていて、そういう環境ができればいいのかな、と思っています。

石倉:藤さんの技も鮮やかでしたけれども、辺境でなければ生きていけないということと、アート禁止によってすべてがアートになっていくということかと思うんですね。宮沢賢治も同じようなことを言っていて『農民芸術論』のなかで「職業芸術家は一度滅びなければならない」と過激なことを言っていますけれども、そうすることによって、すべての人が百姓的にアーティストになっていくという逆説ですよね。アートというものを真剣に考えれば、何かしら人間の創造性に関わることが引き出せるのではないかということです。

土屋:ちょっといいですか? 藤さんのおっしゃったことにだいたい同意なんだけれども、一つ付け加えるとすれば、あと20年もすると確かに都市部は沈没するわけですよ。でも今の都市部からの地方への圧力にちゃんと抵抗しておかないと、都市部がつぶれる前に地方がつぶれるんですよ。それがいちばんやばくて。じゃあ何をしなきゃいけないかというと、都会から流れてくる資本とか、ずるいやつに対抗するだけの知恵をつけないといけないということだと思うんですよ。それは偏差値がどうこうという問題ではなくて、地方にいるなら地方なりの戦う知恵って必要だと思うんですよね。何かに対するリアクションを返すときにはそれなりの知恵が必要じゃないですか。やっぱりバカじゃできないんですよ。だから、「芸術は大丈夫、みんなに開かれてるんだよ」とかソフトなことをいうやつもいるけれども、僕は古い意味の教養主義ではなくて、生きるための知恵、知識、技術、そういうすべてにおいて、今こそ我々地方人は……、ってなんかやばいね(笑)。

石倉:いいね(笑)

土屋:今こそ我々地方人は、知恵をもって戦わなければならないのではないか、と思います。

石倉:いいところで落ちがつきましたけれども、そのためにも、生きる知恵を交換しましょうよ。沖縄と金沢でも、秋田でも、その地域でしか見えない生き残り方というのがあると思いますので。これからもぜひ、ネットワークを深めていければと思います。
(注5)ソーシャル・エンゲージド・アート
ソーシャルエンゲージドアートの特徴として、「伝統的なアート概念を超える」「人々の参加を促す」「現実世界のなかに場を設定する」「政治的な領域に踏み込む」。問題点としては、「アートが安易にソーシャルワークの道具として利用されていないか」「目的が良ければそれでいいのか。アートとしての評価がされていない」ことなどがある。
アートによる社会創造のムーブメント「ソーシャリー・エンゲイジド・アート」。
その表現は、「参加」「対話」「行為」に重点を置き、美術史はもちろん、教育理論、社会学、言語学、エスノグラフィーなど、さまざまな分野の知見を活用しながらプロジェクトを組み立て、コミュニティと深く関わり、社会変革を目指すものです。この新しい試みは、パブリック・アート、リレーショナル・アート、コミュニティ・アート、参加型アートなど、さまざまな歴史的な実践を踏まえて登場し、近年の欧米で盛んになっています。

研修生募集中
アーカイブ2015
アーカイブ2016