| 秋田の歴史 | 秋田の文化、人 |

秋田の歴史
そういえば、「秋田の歴史」ってあまり知られてませんよね。ここでは"知られざる秋田"に(少しだけ)迫ってみたいと思います。


☆秋田にはいつ頃から人間が住んでいたの?☆
 旧石器時代(2万年前)には人間が住んでいました。

☆浪漫の国 秋田☆
 遺跡がいっぱいの秋田。古代の天文台?鹿角市の「ストーンサーク ル(環状列石)」 は縄文後期のもの。
 すぐ近くの「黒又山」は、「クロマンタ」と呼ばれ、その円錐系の形、出土品から「ピラミッド」ではないかと言われています。「古代の神殿があった」との言い伝えが残っており、専門家が調査に訪れたことも。「縄文時代、何らかの信仰がクロマンタを造らせ、それがベーリング海を渡り北・中南米、メキシコ・マヤに伝わったのでは?」との大胆な仮説もあります。果たして真実は・・・?

☆太古 秋田は東北の輝ける星であった☆
 黒竜江(アムール川)周辺で出土した石器時代の「石器」が、北東北で出土したものと類似!さらに縄文時代前期の北東北特有の模様(羽状縄文及び木目状撚糸文)の土器がなんとニュージーランド・ニューヘブリデス群島でも発見されたのです。
 まさに、秋田は「世界への文化発信基地」であったのです。

☆「米の秋田」に稲作が発達しなかった?☆
 弥生時代に広まった「稲作」。ところが、秋田は土地が豊潤、わざわざ耕してつくる必要はなかったんです。

☆人々が往来。「日本海文化」☆
 船に乗り、様々な人々が往来。古くは北方(シベリア)、唐・清朝の中国から、15世紀には朝鮮からの人と文化の往来が活発に。「海のシルクロード」と名付ける学者もいます。
 さらに佐竹藩の家臣・梅津政景の日記によると、当時国内有数の院内銀山には全国各地から人々が「日本海」を船で渡り移住。大阪、播磨(兵庫)、備前(岡山)からたくさんの人々が秋田に新しい文化と伝統・商工業を運んできました。

☆東北で歴史に名を残した最初の地☆
 「アキタ」(アギタ)の名が初めて登場するのは「日本書紀」。斉明天皇4(658)年、阿部比羅夫の「蝦夷征伐」の記述です。

☆蝦夷征伐・・・えっ!秋田って「蝦夷」だったの?☆
 雄勝・平鹿・仙北の三郡より「北側」の土地は、「蝦夷」(えぞ)と呼ばれていました。
 7世紀から19世紀中頃までの約1300年間、「豊潤で広大な土地を持ち」「中央権力に屈しない」「支配・差別が嫌いな」「北方の異民」を、中央では「蝦夷」といって危険視してきました。秋田には「秋田城介(あきたじょうのすけ)と呼ばれる中央の鎮 城司令官が派遣され、常に監視下におかれるほどでした(官官接待の発祥か?)。
 秋田城介、前九年・後三年の役、頼朝の文治奥州合戦、秀吉の奥州仕置、戊辰の東北戦争・・、秋田に対する政策すべてに「征服」という影が見えかくれしているような・・。

☆「みちのく人」=「田舎者」?☆
 万葉集の中の大伴家持(おおとものやかもち)の歌に
  「すめろぎの 御代栄えんと あずまなる みちのくの山に 黄金花咲く」
 とあります。「あずま」=「田舎・へんぴ」の意=「みちのく」・・・。
 秋田人は1200年近く「田舎者」呼ばわりされているんですね。かなりショックです。

☆みちのくは歌枕の国☆
 平安時代、みちのくは、歌枕の国と呼ばれました。「歌枕」とは和歌に読み込まれる名所等のことなのですが、この当時から、人々はみちのくに「あこがれ」を持っていたのですね。めったに行けない遠方の国、異人のイメージと言ったところでしょうか?
 後に松尾芭蕉も「奥の細道」の中で
  「象潟や 雨に西施が ねふの花」
 と秋田県象潟の風景を詠んでいます。

☆秋田杉、鉱山☆
日本三代美林の一つ「秋田杉」。また院内銀山(銀)、尾去沢鉱山(金・銅)をはじめ、県内には数々の鉱山がありました。秋田にとって「ヤマ」は宝そのものであったのです。

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秋田の人と文化
秋田の人々は、とかく保守的であると言われています。しかし先人たちの姿を見るとき、積極的、先取的な「秋田人」のイメージが浮き彫 りにされます。ねばり強く、不屈の精神を持つ秋田人−こ こでは秋田ゆかりの人、文化にスポットを当ててみたいと思います。


☆秋田蘭画<あきたらんが>☆
 秋田蘭画とは、安永2(1773)年、鉱山の調査のために秋田を訪れた蘭学者・平賀源内が角館生まれの小田野直武(なおたけ)に教えた絵画の技法のことです。小田野直武は、杉田玄白の「解体新書」の挿し絵を描いたことでも有名です。


☆安藤昌益<あんどうしょうえき>(?〜1762)☆
 大館市出身の医師、思想家。その著書「自然真営道」では封建社会を徹底的に批判。自給自足を基本とし、男女同権の平等主義、すべての人が社会的・政治的・経済的に差別がない「自然の世」を唱えました。
 →安藤昌益研究会のホームページ


☆石川理紀之助<いしかわりきのすけ>(1845〜1915)☆
 秋田市出身。「老農」「農聖」とも呼ばれています。農業の発展のために小作農問題・農村復興に取り組みました。種苗交換会も理紀之助氏が始めたものです。
 →昭和町商工会のホームページ(石川理紀之助の紹介)


☆平福百穂<ひらふくひゃくすい>(1877〜1933)☆
角館出身の日本画家で歌人。自然主義に基づく「新日本画運動」を推進しました。
 →平福百穂の作品(平野政吉美術館、秋田市)


☆和井内貞行<わいないさだゆき>(1858〜1922)☆
1903年十和田湖でヒメマスの養殖に成功!「我、幻の魚を見たり」との言葉は有名。
 →和井内貞行(みちのく夢ネット)


☆白瀬のぶ  <「のぶ」は「直」の字が3つです>(1861〜19 46)☆
陸軍中尉で南極探検家。南極観測船「しらせ」は彼の名を冠したものです。1910年12 月ノルウェーのアムンゼンと南極点初到達を競うが惜しくも到達できず、南緯80度50 分・西経156度37分の地点に探検隊の名簿、銅柱を埋め、そこを「大和雪原」と名付 けました。その功績は金浦町にある「白瀬南極探検隊記念館」で見ることができます 。
 →秋田県金浦町のページ(白瀬中尉の紹介があります)

・・・・せば、なんぼがリラックスするべぇ・・・ ・


☆落合博満(日本ハム)☆
プロ野球選手。打撃のセンスはもとより、その「存在感」と「年俸の高さ」はピカイ チ!
・・・・おつぅあい!うで!はすれ!んだんだ!い げいげ!!・・・・

☆柳葉敏郎(俳優)☆
元「一世風靡セピア」のメンバーのギバちゃん。現在は個性派俳優として大活躍中!
・・・・東京弁しゃべっても、やっぱり秋田人だな ぁ。きりたんぽたべれ・・・・


・・・続きをどうぞ


☆小林多喜二<こばやしたきじ>(1903〜1933)☆
プロレタリア文学運動の中心者。「蟹工船」「工場細胞」などを発表。


☆内藤湖南<ないとうこなん>(1866〜1934)☆
大阪朝日新聞の記者を経て、京都大学の教授となった。専門は東洋史学で特に中国文 学に精通。著書に「支那史学史」「日本文化史研究」があります。


☆斉藤宇一郎☆
乾田馬耕を山形より導入し、耕地整理を実行しました。


☆伊藤謙吉☆
平鹿りんごの礎を築きました。



☆成田為三<なりたためぞう>☆
「あした 浜辺を さまよえば・・」浜辺の歌の作者です。
 →浜辺の歌音楽館(秋田県森吉町のページ)


今後も「秋田人」をもっと紹介します!御期待ください! !


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